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有馬家伝来・有馬豊氏佩刀・ 宝物【伝・村正】斎藤事務所管理

登録証
都道府県 福岡県
発行年度 平成27年 
種別 わきざし
長さ 34,6㎝
反り 0,7㎝
目釘穴 二個
銘文 表:無名
裏:
備考
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終了予定時刻 2017-03-14 21:44:00.0
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本刀は久留米藩主有馬家伝来宝物で、管理者、斎藤事務所が管理をしており、収蔵番号第二十八号の間違いない名刀村正です。貴重な肥後拵、及び白鞘がついています。拵も見事な肥後拵で見ごたえがあります。刀身に拵え及び白鞘のガタつきは一切ありません。つなぎは双方共合致していません。あくまで拵えの収納用となっています。村正は、徳川家に仇をなす「妖刀」として広く知られている。「村正」の銘は、桑名の地で代々受け継がれ、江戸時代初期まで続いた。同銘で少なくとも3代まで存在するというのが定説である。村正以外にも、藤村、村重等、「村」を名乗る刀工、正真、正重等、「正」を名乗る刀工が千子村正派に存在する。江戸時代においては「千子正重」がその「門跡」を幕末まで残している。なお、4代目以降、「千子」と改称したと言われているが、これは徳川家が忌避する「村正」の帯刀を大名や旗本が避けるようになったことが原因と考えられている。徳川家康の祖父清康は家臣の謀反によって殺害されており、凶器は村正の作刀であった。また、家康の嫡男信康が謀反の疑いで死罪となった際、切腹に使った脇差も「千子村正」であったという。このことを聞いた家康は幼少の頃に村正で手を切ったこともあり、「いかにして此作(こさく)の当家にさはる事かな」と村正をすべて捨てるように命じた。さらに関ヶ原の戦いの折、東軍の武将織田長益(有楽斎)が、その子織田長孝とともに戸田勝成を討ち取るという功を挙げた。家康がその槍を見ている時に取り落とし、指を切った。家康は「この槍は尋常の槍ではない。作は村正であるか。」と聞き、有楽も村正であると答えた。退出した有楽は、近習から徳川家と村正の因縁を聞き、「内府(家康)の御味方である自分が村正を使うべきではない」と槍を微塵に砕いたという。これらの因縁から徳川家は村正を嫌悪するようになり、徳川家の村正は全て廃棄され、公にも忌避されるようになった。民間に残った村正は隠され、時には銘をすりつぶして隠滅した。また父広忠が岩松八弥によって殺害された際に使われた刀[7]、家康の命を受けた野中重政が家康夫人である築山殿を小藪村で斬った刀も村正、元和元年五月七日、真田幸村が大坂夏の陣で家康の本陣を急襲した時家康に投げつけたと云われる刀も村正という伝承がある。・造り込み - 片手打ちの刀、脇差、寸延び短刀、槍等、戦国期の消耗品であった刀剣の製作が多い。刀の姿は先反りがつき、切先伸びるものとなる。平肉つかず鎬筋高い。身幅は尋常。茎は刃側が張った「タナゴ腹」と呼ばれる独特の姿となるものが多い。これは、駿河島田派の相州茎と似ており、島田派の影響を受けていたことがうかがわれる。・地鉄 - 板目肌が流れ、白け、肌立ち粕ばるものが多い。棟寄り、刃寄りに柾目肌が交じる。・刃文 - 直刃(すぐは)に湾れ(のたれ)を基調とする。古刀期においては珍しく、表裏で焼きが揃うのが特徴である。総じて焼きが低い。また、互の目が混じる場合、互の目の頭が角張る。これを「箱乱れ」と言う。その他、尖り刃を交えた三本杉風の焼き刃や、矢筈刃、皆焼(ひたつら)を焼く。小沸出来(こにえでき)で、匂い口沈む。
本刀も村正の掟通りの先反りがつき、切先伸びるものとなる。平肉つかず鎬筋高く身幅は又尋常。茎は刃側が張った「タナゴ腹」となっています。地鉄 –は板目肌が流れ、刃文 は直刃に湾れを基調とし、表裏で焼きが揃い、互の目の頭が角張り、箱乱れを焼いています。又必見は凄い皆焼(ひたつら)焼きは重要刀剣にも見られます。まさに村正の真骨頂といえます。拵えは縁頭は肥後平田の作域となる。赤銅縄手千七宝縁頭の垢抜けた金具となり、目貫は桐文三双目貫が茶糸の時代巻となっており、 鞘は渋い茶色に柄蔓の紋様が彫られ、皮包風の風合いとなり、表面に浅く黒漆が摺られた変わり塗鞘で、鍔は肥後なまこ象嵌が付属した時代外装として保存状態は良く、小柄は(南蛮人物で穂は賀州金沢住人兼巻作在銘です)刃切れ・曲がり・は無く・掟通りのタナゴ腹茎の素晴らしい御品です。裸眼で見た限りでは庇は見当たりません。余程、大切に保管されていたと思われます。依頼品のためキャンセルはご遠慮ください。古美術品の為個人の感覚に相違がありますので写真をよく見て頂きますようお願いします。質問は仕事の関係ですぐにお答えできない場合がありますので、私のアドレス若しくは携帯までお願いします。わかる範囲で誠意をもってお答えいたします。 bkdat805@rinku.zaq.ne.jp 090-5884-0695 以上よろしくお願いします。
【詳細】(登録)・福岡県教育委員会第105055 平成27年3月19日 (種別)・わきざし (長さ)34,6㎝ (反り)・0,7㎝(目釘穴)・2個 (銘文)・無名
★元幅:3.0cm 元重:0,7cm 先幅:2,2cm 先重:0.5cm。重量 鞘を払って300g
【久留米藩・有馬家】・・・・・・・・・・・・・・・久留米藩(くるめはん)は、筑後国御井郡の久留米城(現在の福岡県久留米市)に藩庁を置いた藩。1620年以降幕末まで摂津有馬氏が藩主を務め、21万石を領した。米藩(べいはん)とも称される。元和6年(1620年)、丹波国福知山藩8万石の大名であった有馬豊氏は、一挙に13万石の加増を受け、久留米21万石の領主として入封した。大幅な加増は大坂の陣の功績とされている。豊氏は、播磨国の赤松氏庶流の豪族・有馬則頼の二男で、豊臣政権では姉婿である遠江国横須賀城主渡瀬繁詮に仕えてその所領を継承、豊臣秀吉死後は父とともに徳川家康に接近し、家康の養女蓮姫を娶ったという経歴を持つ。関ヶ原の戦い後の福知山への加増転封や父の所領(三田藩)の編入を経て、久留米移封によって一代で21万石の大名にまで躍進した人物であるが、同時に多様な出自を持つ家臣団を持つこととなった。渡瀬家から引き継いだ「横須賀衆」、父の三田藩から引き継いだ「梅林公御代衆」、豊氏が福知山で召し抱えた「丹波衆」、そして久留米で新たに召し抱えた家臣などである。こうした派閥は、のちの藩内抗争の下地となった。初代藩主・豊氏は、入封後に廃城と化していた久留米城の修築を手がけ、城下町を整備した。年貢の増徴策を取る一方、新領地の人心掌握にも腐心している。以後有馬家は明治維新まで栄える。慶応4年(1868年)には大政奉還を受ける形で尊王攘夷派が復権し、佐幕派の首脳を排除・粛清。戊辰戦争が始まると新政府軍側で参戦した。しかしながら、明治政府の「開国和親」路線に不満を持つ久留米藩攘夷派政権は、明治4年(1871年)に二卿事件と呼ばれるクーデター未遂事件に関与し、明治政府の命令を受けた熊本藩に城を占拠されている(久留米藩難事件)。明治4年(1871年)7月、廃藩置県により久留米藩は廃されて久留米県となり、同年11月に三潴県に編入。明治9年(1876年) 福岡県の一部となった。明治17年(1884年)、華族令の公布により有馬家当主頼万(頼咸の子)は伯爵となった。また、のちに頼万の弟が分家して男爵家を創設している。